私は1988年の冬頃にJR阿佐ヶ谷駅前に在った或る店の店員として働いていた。その店で黒い革のジャンバーを着ていた先輩店員の芹ヶ野正一氏と知り合いになった。氏は、その当時パンクバンド フリクションでシンセサイザーを担当していて、フリクションのメンバーたちとニューヨークに行って「レプリカント・ウォーク」のレコーディングをしていた。そのときニュヨークにいる氏から店で仕事中の私に国際電話が掛ってきた。そのときアメリカは夜中で日本は昼間であった。私にとっては通話に時間差がある国際電話は初めての経験であった。その後、氏がニューヨークから戻って国内でライブのツアーなどをしたのち、ある日、フリクションのレック氏が店に来て「セリガノ居る?」と遊びに来たりしていた。 或る日、私が阿佐ヶ谷の五叉路に在る芹ヶ野氏のアパートに遊びに行ったおり、たまたま福岡の小倉から遊びに来ていた福澤徹三氏(現在は小説家)と逢った。芹ヶ野氏と福澤氏は高校時代の同級生で遠慮のない間柄のようで、しばらくして芹ヶ野氏が用事があるとのことで福澤氏と私はアパートを追い出されてしまった。福澤氏と私は顔を見合わせるようにして福澤氏が寄寓していると云う別の友人宅に行くことになった。 私は福澤氏に連れられて氏の友人宅に上がり込んでいたが憂鬱でもあった。実は、そこは氏の友人と云う人は仕事に出ていて不在で、つまり私は先程知り合ったばかりの福澤氏と対座して不在の氏の友人の酒を勝手に福澤氏と共に呑んでいるのであった。私はなんだか変な気持であった。こう云うとき私はどういった心持ちでいればよいのか見当がつかなかった。 併し、福澤氏の友人が帰宅して私の不安はまったくの杞憂であったことが判った。福澤氏の友人と云うのは長野慶吉氏で、長野氏は類稀な好人物で、男女とわず誰からも好かれる人物であった。 また福澤徹三氏は私の三畳ひと間のアパートの一室にひと月程身を寄せていた。あの頃は今以上に金に縁がなくて始終生活は困窮を極めていてひと月1万1千円家賃を半年程ためたりしていた。そう云う暮しであったが唯一の愉しみは氏と共に安い日本酒と牡蠣の缶詰を肴に一杯やることであった。
摑みどろこがないが、何事かをやらねばならぬと云う強迫観念に近いものに突きうごかされていた。1989年頃の24才の私は、上野の西洋美術館前の路上でギターを弾いて唄っている人に出逢った。彼は在日の韓国人で大阪出身の夫歌寛(プーカングァン)氏といった。その頃は彼も日本名でも出ていて、今のように韓流がはやるまえであったから在日の韓国、朝鮮人には風当たりがつよかったようだ。 私は夫氏と出逢ったとき明確に目的意識を持って接していた。私の目的は、私の仲間をつくることであった。私はそのとき公募団体や貸画廊での表現方法に疑問をもち多少表現の素材が変わろうとも同人雑誌の世界であれば自分の作品世界をつくりだせると考えていた。その同人雑誌の仲間は私に必要なものであった。 そして、誌名も既に私の心のうちにあった。それは「夭折志願」と云う一見物騒な名前であったが「夭折」と云う言葉はどのような誤解や曲解を生もうとも魅力的で避けがたいものであった。・・・とにかく、若くして志なかばで斃れてゆくと云うところがよかった。 夫歌寛氏が主宰する自身のライブに何度か通ううちに私は当時、外語大の学生であった須藤夕香氏と知り合った。その須藤氏を介して詩を書いたり宮城聰主宰の劇団「冥風」の俳優をしていた玉田寛氏を知り、また小説を書いたり8ミリ映画を撮っていた久保氏(現在は川屋せっちん氏)を知った。 その後、「夭折志願」の会合には玉田寛氏、川屋雪隠氏、前村和哉氏、長野慶吉氏、阿部マキ氏、聖彩色氏、須藤夕香氏、鴨沢めぐ子氏、雛川紅遊氏、福澤徹三氏、そして、不肖、藤宮史が参加して賑やかであった。 併し、肝心の雑誌は50部発行の予定でいたが、50部のページをつくったままで同人会は空中分解し未発行に終わってしまった。
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Date: 2008/05/20(火)
No.6
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