よ こ み ち




私の遅すぎた青春時代  2008/05/20(火)
私の遅すぎた青春時代 2  2008/05/16(金)
私の銅版画制作助手時代  2006/09/13(水)
私のテレビドラマ装飾美術スタッフ時代  2006/09/08(金)




私の遅すぎた青春時代
 私は1988年の冬頃にJR阿佐ヶ谷駅前に在った或る店の店員として働いていた。その店で黒い革のジャンバーを着ていた先輩店員の芹ヶ野正一氏と知り合いになった。氏は、その当時パンクバンド フリクションでシンセサイザーを担当していて、フリクションのメンバーたちとニューヨークに行って「レプリカント・ウォーク」のレコーディングをしていた。そのときニュヨークにいる氏から店で仕事中の私に国際電話が掛ってきた。そのときアメリカは夜中で日本は昼間であった。私にとっては通話に時間差がある国際電話は初めての経験であった。その後、氏がニューヨークから戻って国内でライブのツアーなどをしたのち、ある日、フリクションのレック氏が店に来て「セリガノ居る?」と遊びに来たりしていた。
 或る日、私が阿佐ヶ谷の五叉路に在る芹ヶ野氏のアパートに遊びに行ったおり、たまたま福岡の小倉から遊びに来ていた福澤徹三氏(現在は小説家)と逢った。芹ヶ野氏と福澤氏は高校時代の同級生で遠慮のない間柄のようで、しばらくして芹ヶ野氏が用事があるとのことで福澤氏と私はアパートを追い出されてしまった。福澤氏と私は顔を見合わせるようにして福澤氏が寄寓していると云う別の友人宅に行くことになった。
私は福澤氏に連れられて氏の友人宅に上がり込んでいたが憂鬱でもあった。実は、そこは氏の友人と云う人は仕事に出ていて不在で、つまり私は先程知り合ったばかりの福澤氏と対座して不在の氏の友人の酒を勝手に福澤氏と共に呑んでいるのであった。私はなんだか変な気持であった。こう云うとき私はどういった心持ちでいればよいのか見当がつかなかった。
 併し、福澤氏の友人が帰宅して私の不安はまったくの杞憂であったことが判った。福澤氏の友人と云うのは長野慶吉氏で、長野氏は類稀な好人物で、男女とわず誰からも好かれる人物であった。
 また福澤徹三氏は私の三畳ひと間のアパートの一室にひと月程身を寄せていた。あの頃は今以上に金に縁がなくて始終生活は困窮を極めていてひと月1万1千円家賃を半年程ためたりしていた。そう云う暮しであったが唯一の愉しみは氏と共に安い日本酒と牡蠣の缶詰を肴に一杯やることであった。

 摑みどろこがないが、何事かをやらねばならぬと云う強迫観念に近いものに突きうごかされていた。1989年頃の24才の私は、上野の西洋美術館前の路上でギターを弾いて唄っている人に出逢った。彼は在日の韓国人で大阪出身の夫歌寛(プーカングァン)氏といった。その頃は彼も日本名でも出ていて、今のように韓流がはやるまえであったから在日の韓国、朝鮮人には風当たりがつよかったようだ。
 私は夫氏と出逢ったとき明確に目的意識を持って接していた。私の目的は、私の仲間をつくることであった。私はそのとき公募団体や貸画廊での表現方法に疑問をもち多少表現の素材が変わろうとも同人雑誌の世界であれば自分の作品世界をつくりだせると考えていた。その同人雑誌の仲間は私に必要なものであった。
 そして、誌名も既に私の心のうちにあった。それは「夭折志願」と云う一見物騒な名前であったが「夭折」と云う言葉はどのような誤解や曲解を生もうとも魅力的で避けがたいものであった。・・・とにかく、若くして志なかばで斃れてゆくと云うところがよかった。
 夫歌寛氏が主宰する自身のライブに何度か通ううちに私は当時、外語大の学生であった須藤夕香氏と知り合った。その須藤氏を介して詩を書いたり宮城聰主宰の劇団「冥風」の俳優をしていた玉田寛氏を知り、また小説を書いたり8ミリ映画を撮っていた久保氏(現在は川屋せっちん氏)を知った。
 その後、「夭折志願」の会合には玉田寛氏、川屋雪隠氏、前村和哉氏、長野慶吉氏、阿部マキ氏、聖彩色氏、須藤夕香氏、鴨沢めぐ子氏、雛川紅遊氏、福澤徹三氏、そして、不肖、藤宮史が参加して賑やかであった。
 併し、肝心の雑誌は50部発行の予定でいたが、50部のページをつくったままで同人会は空中分解し未発行に終わってしまった。
Date: 2008/05/20(火) No.6


私の遅すぎた青春時代 2
 その後、時代はさがって1994年頃には同人雑誌sometingの編集をしていた渡辺悦子氏と高円寺の喫茶店ネルケンで出逢い、編集長の渡辺作郎氏(元村八分ドラマー)とも出逢った。 
 渡辺夫妻とは親しくさせて頂き、高円寺に在る氏の自宅に何度もお邪魔してsometing3号(1995年刊)に詩作品を載せ、sometingからTOTOTOに誌名を改えた4号、5号にエッセーなどを掲載した。いま手許にある4号を見ると参加者には、インタビュー記事を載せている神長恒一氏(だめ連)、石坂昌代氏(ロリータ18号)、キリヒト氏、富沢よし子氏、チコ・ヒゲ氏、レック氏(フリクション)などで、また文章や絵を載せている人たちは、荒木知子氏、井手口知子氏、上田ユウジ氏、春名智恵子氏、風間かすみ氏、翠けい子氏、山崎悟郎氏、荒木順氏、百川空蔵氏、日本平大八車氏、犬田百缶氏、平松み紀氏、山田多良氏、菅原常夫氏、北村佳子氏、安藤博信氏、安藤まゆ子氏、中林千穂氏、大野こと氏、佐藤文幸氏、藤宮史、中村靖氏、中村洋子氏、山田多恵子氏、イクエ・モリ氏、佐野ともみ氏、加納穂子氏、エディ氏、ビル氏、ヒダヨシユキ氏、渋谷浩一氏、田中流氏、岡沢敦司氏、鈴木豪氏、中島武明氏、吉村みよ子氏、マイク・フーザー氏、望月慎一氏、渡辺作朗氏、渡辺悦子氏であった。
 この頃は、私が考えている以上の人々との出逢いがあり、人の思いの熱気の渦に巻き込まれていたようであった。

 また1994年の同時期に「プール」と云う内容のパフォーマンスの展覧会を銀座の画廊で開催していた小川てつオ氏と出逢った。氏は、その当時20代前半で自ら巨匠を名前のまえにつけて「巨匠小川てつオ」氏であった。
 氏はごく普通のゴミ袋に入ったゴミをエコロジカル雑誌「もえるゴミ」として都内のミニコミ書籍取り扱い店のフジヤマやタコシェ等に納品して販売していた。私は自由ヶ丘に在るもみの木画廊で、それを購入し、それを手で持ちながら帰路電車の中で乗り合わせた人々から怪訝な視線をむけられて困惑したことがあった。
 その後、この「もえるゴミ」は購入者にさまざまな感動を与えながら雑誌ガロや雑誌クイック・ジャパンなどやテレビ番組のトゥナイトでもとりあげられていた。
 そして、小川てつオ氏はフリーペーパーで毎月詩作品を大量に発表したりアカペラパンク猿と云う2人組の音楽グループでライブ活動もやっていた。私も氏の活動に注目して氏の詩を読んだりライブに行ったりしていた。その後、氏は居候生活と云うことをはじめてテレビメディアにとりあげられ30分のドキュメント番組として放送された。また、その後、氏はホームレス生活に表現形体をかえて3年ほど経ち、雑誌現代思想などにホームレス文化の実情を寄稿している。
 
 話が多少それたが、とにかくあの10年以上まえの頃はまだネットの世界もあまり普及していなくて表現を志している者は楽しく皆で地域センターの印刷室に行ってはがんがん同人誌やライブの案内チラシをタダ同然で刷りまくっていたものであった。
Date: 2008/05/16(金) No.5


私の銅版画制作助手時代
 私は1999年9月中旬ごろに漫画家の永島慎二氏と知遇を得る機会があり、氏に銅版画制作を教示することになった。永島氏は私のアパートの一室に来て銅版画(エッチング)制作をした。その日、部屋のなかは永島氏と私、私の伴侶のマキコ、永島氏の紹介者である広瀬氏に私の銅版画制作を紹介した長野慶吉氏とぜんぶで五人であった。狭い六畳間であったので落ち着いて仕事などできない状態であった。併し永島氏は意に介せず凄い勢いでニードル(鉄筆)をエッチング用にグランド液で皮膜した黒い銅版の上に走らせてゆく。あっと言うまに二枚の銅版画の絵が出来上がり、私は腐食液のなかへ銅版を沈めてゆく。10分、20分、30分と加減を見ながら銅版を腐食液からあげなければならない。この腐食の加減が銅版画制作の決め手で難しく、また醍醐味でもある。腐食は思いのほかうまくいった。併し、銅版の上に塗っておいたグランド液が劣化していたためニードルの線がギザギザになっているところがでていた。永島氏はそれを見ても動じることもなく試し刷りに入った。何枚か刷り上がってゆく銅版画を見て喜ばれているようであった。私もなんとか大役を果たして安堵していった。
Date: 2006/09/13(水) No.3


私のテレビドラマ装飾美術スタッフ時代

 1992年にテレビドラマの2時間サスペンス枠で装飾美術スタッフとして参加したことがあった。この仕事は2週間ほどの撮影現場でのものであったと記憶するが、私の人生にとっては何ケ月にも相当するような過酷な時間であった。併しまあ、そうは言っても肝心のドラマのタイトルを失念していて強烈な経験であったわりに抜けているところもある。監督やカメラマン、原作者の名前もわからない。ただ判っているのは装飾美術のスタッフの名前ばかりであとはキャストの名前である。こちらの方は以外と意識が働いていたせいか忘れていない。主演は丘みつ子氏、勝野洋氏、多賀基史氏、斉藤洋介氏等がいた。併しわりあいに有名な役者の数がかぎられていて、横から聞いた噂では制作費が5000万円と云う話であり以外に安いものだと思った。
 このドラマ制作で私がやった仕事はおもに引越し作業のようなものであった。横浜の郊外の住宅地に在る庭つき一戸建ての空き家の二階家に半日もしないうちに調布に在る高津装飾でタンス、テーブル、椅子、ソファー、食器棚、冷蔵庫、電子レンジ、湯沸しポットなどを借り受け、キッチン用小物を入れて動かすラック、額に入った竹の絵を描いた絵画。勿論こられのものをただ持ってきて置いてゆくわけではない。撮影に使うのであるから生活をしているような自然な雰囲気をつくってゆかなければいけない。つまり冷蔵庫は電気が入っていて中にはパンにつけるいちごジャムの瓶やバター、またビールの缶や食材の入った白いトレーがなければいけなかった。一階が終わると、大急ぎで二階の装飾に取り掛かった。
 私にとってこのドラマの撮影が始めて報酬を貰う仕事であった。はじめてであったので見習いであったが、現場では素人では通らないのであくまでベテランを装っていた。
上掲の写真はドラマのなかで使用された小道具のひとつである。
Date: 2006/09/08(金) No.2



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